心理学の本棚のすみっこ

じょーの個人的なこと。

ふたりうしなう

なんか引っ越しとかすることになり、また変化の春を迎えてしまいました。

変化は苦手な方です。保育所時代からだめ。そわそわします。

 

儀礼的にたくさんの「いままでありがとうございました、今後もみなさま健康に気をつけてお過ごしください」という言葉を口にして、「あなたも新しいところでがんばってね」という言葉をもらって、この1週間を過ごしたのでした。

そういうやりとりをした人たちの中には、今後の人生においてもう会わない人もいるでしょうし、あるいは何度かは会える人もいるかもしれません。

実際のところ、「こいつともう会わなくて済むなんてなんてうれしいんだ!」という人も幾人かいました。もちろん、この人ともう会えないのは残念だな、という人もいます。

いずれにしても変化の春です。変化は向こうからやってきて、勝手に、それはもう勝手にいろいろやっちゃってくれます。

人と別れるときのさびしさの半分は、「その人に会っているときだけ出てくる自分の一部分」との別れなのだとこの春、気がつきました。

自分というのはすごくやわらかくて、たとえば二枚貝が安全なところでは中身をべろーんとたくさん出しているのに危なくなると一瞬でそれを引っ込めて固く閉じる、というようなのに似ています。この人といるときはこのくらい中身が出るとか出ないとか。それは単に程度問題ではなくて、もっと複雑です。

安心感が生じる相手もいれば、刺激を感じる相手もいて、あるいは人生の複雑さをわからせてくれる相手もいて、どれが優れているとかではない、と思います。

たまたまその中の誰かと会えなくなったからと言って、替えがきくわけではありません。そして、その人と会っているときに出てくる自分も、相手に依存して唯一無二というものでしょう。

別れがたい、と思うときの、相手を失う感じと、その人といるときにだけ自分を失う感じ。その2つが、人と別れるときのさびしさの全貌なのだと思いました。

 

『25時のバカンス』(市川春子)の「月の葬式」という話の中に、「二人ならイモだけのシチューもおいしかった」というセリフがあって、それはこういうことなのか、と思ったのでした。「二人ならイモだけのシチューもおいしかった」、でも、イモ以外の具も入っているシチューが食べたいのであれば、一時的に引き受けなければならない別れもある、と解釈することもできます。

あるいは、『漁師の愛人』(森絵都)の中の「あの日以降」には、「“生きること”と“生きのびること”が別物だなんて、知らずに私たちはこれまでやってきたのだ」という一文があって、先日読んで以来なんとなく胸の中に残っています。わたしがここでこうやって過ごしたことのある部分は生きるための行為だったろうし、別の部分は生きのびるための行為だったと思います。その2つの行為の矛盾する部分についてはまだ答えがないような気がするのですが、それも徐々に理解するか、あるいは忘れるかするのでしょう。

 

イモだけのシチューがおいしかったことを忘れないうちに、いろんな具が入っているシチューを食べられますように。

この春の祈りはそれだけです。

 

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