心理学の本棚のすみっこ

じょーの個人的なこと。

「研究室に女はいらない」

「今年は研究室に女子が入ってこないといいねえ」

先生がのどかな声で言った。先生の側の机にPCを置いて作業していた先輩が、一瞬手を止めて「そうですね」と答えた。

自分にも、その会話の意味が、もうわかるようになった。本棚で洋書を探す手を止めずに、二人の会話を聞くともなしに聞きながら、胸の中で思った。

四月初旬、桜の最後のひと枝から、風が吹く度に花びらが舞う。それが、研究室の窓ガラス越しに見える。キャンパスは、新しくこの大学に入学した大学の1年生や大学院修士課程の1年生で華やいでいる。この大学は大きいので、よその大学を出て、ここの大学院に入る人も少なくない。

この四月で、自分も修士1年生になった。卒論からこの研究室なので、もう3年目だ。

そして、先輩はこの春、博士後期課程の3年生になった。修了年度だ。投稿論文が順調なので、今年度学位を取るだろう。

他にも卒論生やら留学生やら、メンバーはいるけれど、メインメンバーは先生・先輩・自分の3人だ。現にこうして、研究会もない昼間の明るいうちから3人とも部屋にいる。

この快適さは、先輩が長い時間をかけて作ったものであることを、自分は知っている。

 

先ほどの、「研究室に女子が入ってこないといいね」は、先生と、先輩と、そして自分の経験から発せられた言葉だ。

女子の先例は、自分の2年先輩だった女の先輩だ。つい先月まで、この研究室のメンバーだったが、修士課程修了と同時に結婚して、いなくなった。

全部、自分たちのせいだ。先輩が中心になって、圧力をかけて、自然と博士後期課程への進学をあきらめされた。圧力は簡単だ。雑誌会で、めんどくさそうな論文はすべて彼女に投げる。また、その発表日に、突然「先生が急な会議で」などと理由をつけて雑誌会を取りやめにする。他にも、実験装置の順番を飛ばして、待ちぼうけにさせたこともある。研究備品の紛失や破損が、気づいたら彼女のせいになっていたこともあった。そういう積み重ねで彼女は心を病み、それを見かねた彼女の恋人が、結婚を提案した。そのために、博士後期課程への進学を辞め、彼女は家庭人として新しい生活を始めたのだった。

 

「クズですね」

研究室で調べ物をし、そのまま図書館にも足を延ばして、夜までだらだらと先行研究のまとめ作業をして家に帰ると、先輩が自分のベッドで寝ていた。帰りに研究室に寄らなかったため、先輩の所在を確認しそびれていた。

先輩は寝ていた。揺さぶって起こそうとしたら、目も開けないで「腹減った…」と言った。

先輩とは、大学3年の冬にはもうこういう感じだった。研究会の後の飲み会から、なんだかんだと3次会くらいまでついていったら、「お前の家で飲もう」と言われて、家に上げたらなんだかんだと、自分の純潔は散ってしまったのだった。感慨は特になく、ただ、女の子のことを考えるよりも、こういうふうなほうが楽だな、と思った。

キッチンでインスタントのラーメンを煮た。きっとろくなものを食べていない先輩のために、もやしを山盛りにした。

2つのどんぶりをローテーブルに載せると、自然と先輩が起きて来て、勝手に食べ始めた。二人とも同じくらいで食べ終わった。食べ終わったら先輩がからみついてきて、なし崩しにそういうふうになって、やっぱりこういうのは楽だな、と思った。

 

先輩は、先生とも寝ている。お金をくれるからだ。

「先生のところにはいろいろな研究費が集まってきてる。それの一部を、研究員として俺を雇ったということにして、ほぼノーワークで俺にくれてる。おかげで俺は研究だけができる」

いつだったか、先輩はそう説明してくれた。たしかに、先輩は好青年風の見た目なので、年上の男性には好まれそうだった。

「でも、お金だけ動いていて、誰も働いてなかったらばれるんじゃないですか?たとえば、研究が進んでいるはずなのに進んでいないとか、わかりそうなのに」

自分が素朴な疑問を口にしたら、先輩は言ったのだ。

「そこで、卒論生の出番だ。卒論生は卒論のために、先生とか俺の言う通りに作業をする。もちろん、全てが卒論になるわけじゃない。しかし、研究室の仕事は、卒論の役にも立つから、やらないわけにはいかない。あいつらのがんばりは、俺の仕事として報告される。研究費の出資者にはわからない」

おいしい立ち位置ですね、先輩、と自分は確か言ったのだった。そしてそれに対して先輩は、そうしてやりくりした時間で俺はこうしてるわけ、と言って笑ったのだった。

実際、博士後期課程の人は、どこの研究室の人を見ても、貧乏そうだった。近くの研究所でパートタイムの研究員をやっていたりすればいいほうで、中には学費が立ち行かなくなって、学校を辞めて実家に帰る人もいるらしい。そんな中で、確かに先輩は、困っていない風だった。それもこれも、理解ある先生と、研究室の卒論生の働きぶりによっていたのだ。

「しかし、女はなあ」

伸びをしながら先輩は言った。

「生理だかなんだかしらねーけど、イライラしてるときはあるし、夜中までやれって言った作業を、夜はできませんとか言って帰ろうとするし、使いづらいよな」

かといっていないよりはマシだけど、と先輩はぼそりと付け加えた。

 

たまに先輩は、さびしそうな目をする。先生との関係が、お金なのか気持ちなのかはっきりしなくて、イラついているときもある。そのとばっちりで、自分はときどき、乱暴に扱われる。

自分は先生に、一般的な憧れを抱いている。研究者としての業績は立派なものだと素直に思う。そして、先輩のことも、研究上の先輩として尊敬している。

先輩は、先生とのことがわかっていない。

そして先生は、自分のことはただの修士の1年生と思っているだけだろう。

先生と先輩って、何なのだろう。また、先輩にとって自分って、なんなのだろう。

そういうことを考えていると、眠れなくなるときがある。

そんなときにうっかり、街で幸せそうな男女のカップルを見かけると、なんとも言えない気持ちになる。自分と先輩も、先輩と先生も、ああいうふうには歩けないのだ。

街で見かけるだけではない、身近にも、彼氏のいる女の子なんかは、ケータイを見ながら楽しそうにしていたり、ふと話題に彼氏のことが出てきたりして、幸せそうだ。

そういうものに触れると、何か考えると不安になるようなことが胸の中で育ってしまう気がして、とてもこわい。

 

「研究室に女はいらない」

明るい場所で叫べないことであることはわかっている。けれど、これがこの研究室のひとつの是なのだった。

 

 

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※フィクションです。